空の青 風の緑 ーゆるりクリエイティブー

ゆるっと楽しめるエッセイをめざしてます。

【言葉・文化】「づ」か「ず」か、「ぢ」か「じ」か。 ー音の区別とパソコンとスマホの変換の違いー

前回のブログの中で「お年寄りがつまづきそうな」という表現を使っていて、その時は何も考えていなかったのですが、後で「ん…?つまづく?つまずく?どっちだっけ?」と、ふと気になりました。

そこで、ネットで調べて見たところ、一応、「つまずく」が適切ではあるようですが「つまづく」でも許容されるということでした。

光村図書さんのホームページにきちんとした解説があったので、リンクを貼っておきます。

www.mitsumura-tosho.co.jp

要は、現代仮名遣いでは、基本的に「ず」を使うこととなっていて、特定の場合のみ、「づ」を使う、ということのようです。これは「じ」と「ぢ」でも、同じで、現代では原則「じ」を使用するようになっているとのことでした。

今まで、「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」を何気なく使っていて、使い分けについて考えたことがなかったので、初めてきちんとした解説を読んで「そうだったのか!」と、ちょっと驚きつつ、納得しました。

私は、言葉で「どっちかな?」と悩んだら、一応どちらも書いてみて、しっくりくる方を選ぶ、というフィーリングというか直感で、普段、文章を書いています(どっちも分からないときは、ちゃんと調べますが)。

ただ、直感とは言うものの、一応、今まで自分が読んできた本の記憶をベースに判断している(つもり)なので、根拠なく適当に、というわけではない、とも、今まで思っていました。

なので、今回「つまずく」の方が、原則的には「正」の扱いであることを知ったとき、「でも「つまづく」の表記も違和感がなかったんだけどなあ…」と、ちょっと自分の文章に対する直感に、自信がなくなってしまいました。

ですが、光村図書さんの解説をよく読むと、現代の文章は「昭和61年内閣告示」の「現代仮名遣い」をベースに書かれている、と記述されていました。

そう考えると、私は、子どもの頃から、図書館などで結構古い本(出版年が昭和のもの)を借りて読んでいました。また近代文学関係の資料館で働いていて、数年、旧仮名遣いを普通に読むような生活をしていたので、そういう経験から、現代仮名遣いの「つまずく」ではなく、旧仮名遣いの「つまづく」を使ったのだろうな、と思います。

ちなみに、パソコン(IME)だと、どの程度「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」を区別するのかな、と思って、いくつか打ってみました。

光村図書さんの例にあったような「つまずく」「つまづく」はどちらも「躓く」と変換されました。「おとずれる」は「訪れる」でしたが、「おとずれる」は「乙津れる」となって、正しい変換はされませんでした。「はなぢ」は「鼻血」でしたが「はなじ」は「花時」と変換され、「ちぢむ」は「縮む」となり、「ちじむ」は「知事務」となりました。

ちゃんと、パソコンも区別しているんだなあ、と妙な感心をしたところで、今度はスマホはどうかな?と、気になって、スマホでも試してみました。

結果、私のスマホはandroidなのですが、さきほど上げた例は、全て区別せずにきちんと変換されました。「おとづれる」も「はなじ」も「ちじむ」も「訪れる」「鼻血」「縮む」となったので、驚きました。

iPhoneやあるいはandroidでも機種が違えば違うのかもしれませんが、私の機種では、おそらく「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」を区別しないという設定になっているのかな?と思いました。スマホだと、音声認識などの機能の部分が発達(?)しているので、それもあって、同じ音で区別をしないということかな?とも考えたりしましたが、詳しくないので、そのあたりはよく分かりません。

普段、何気なく書いたり使っている言葉も、きちんと調べてみると、ちゃんと使い分けが決まっていたりして、興味深いなあ、と思いました。また、今回、パソコンやスマホの変換の違いを知ることができたのも、なかなか面白い経験でした。

また、何かこういう言葉や音の使い分けなどついて、気づいたときは、少し掘り下げて調べて、考えてみたいなあと思います。

 

さて、曼荼羅アートです。

なんだか画像の調整が上手くいっていなくて、背景が水色(?)っぽくなってしまいました。

もっと模様を描きこもうかな、とも思ったのですが、周りの形の面白さが半減してしまう気がして、中央部分だけ模様を描いたところで止めました。

私にしては珍しく、全部模様で埋め尽くしていないデザインです。このデザインを活かした着色ができればいいな、と思っています。

曼荼羅アート(制作中)

曼荼羅アート(制作中)

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【好きな本紹介】『世界の路地』『新 世界の窓』 ー外の世界へつながる場所ー

時々、思い出したように書く「好きな本紹介」ですが、今回は写真集です。

ご紹介するのは、パイ・インターナショナルさん発行の『世界の路地』『新 世界の窓』の2冊です。

参考までにリンクを貼っておきます。

pie.co.jp

pie.co.jp

私は、『世界の〇〇』や『世界の美しい〇〇』というシリーズの写真集が好きで、図書館などでも一時期よく借りていたのですが、自分で購入して、手元に持っているのは、今のところ、この2冊だけです。

タイトルの通り、世界中の路地や窓の写真がおさめられていて、ほんとうにどれも素敵な写真ばかりです。ですが、特別に華やかな場所とか、名前のある芸術作品がある場所、というわけではありません。

路地の写真には、国によっては洗濯物が写っていたりしますし、窓の写真では、家の壁がひび割れているものもあったりします。でも、そこが生活感が感じられて、好きなところでもあります。

私は、日本でも海外(あんまり行ったことはないですが)でもそうなのですが、観光地にはあまり興味がなくて、その土地の日常が感じられる場所に惹かれます。

その土地にしかないスーパーとか、その土地独特の家の造りとか、そこで住んでみないと分からない暮らしの違いとか、そういう、その地域の文化とかを実感できるものを見るのが好きなのかな、と思います。

この『世界の路地』『新 世界の窓』も、その土地の空気や文化が伝わるようなところが、お気にいりポイントです。

多分撮影地は、観光地ではないと思うのですが、そのなかでも「路地」「窓」という生活に密着した、でも見逃してしまいそうな部分に注目しているところが、いいなあと思います。

(時々ブログでも書いていますが)世界の民話を読むのが好きなのですが、「路地」や「窓」も、その民話を読むのが好きな感覚と同じような感覚で、惹かれます。

私にとって、窓や路地は、(上手く説明できないのですが)その国の独自の文化を感じることができる場所で、その感覚が、民話を通して、文化や歴史、その国の考え方を知るのに近い感じがするのです。

日本とは違う日差しの感じも、お年寄りがつまづきそうな(!)でこぼこの石畳も、窓辺に飾られた花も、全てにその国の文化や歴史が詰まっている感じがして、見ているとなんだかワクワクします。

道や家は、その国の風土を色濃く反映しているので、それらを形作っている素材を見るだけでも、その背後にある長い長い歴史を感じられるような気がします。

あと、単純に(時々書いていますが)デコラティブだったり、明るい色ものが好きなので、海外(特にヨーロッパなど)の路地や窓は、そういう私の好みに合うものが多くて、そこも私の心をくすぐる要素だったりします。

と、ここまで、この本を好きな理由を色々書いたのですが、考えてみると、何故か昔から、「道」や「窓」というモチーフに惹かれていたことを、ふと思い出しました。

特に、道の先が見えなくても、その先が明るい景色だったり、窓が開いて、外が明るかったり、という風景が好きで、以前はイラストや油絵でもそういう風景をよく描いていました(最近描かないのは、遠近法に自信がないからです…)。

道や窓は、外の世界への入口で、そこを通ることで、あるいは開けることで、外の場所との繋がりが出来ます。その空間が広がる感じ、画面よりももっと広い外の広がりを感じられる、というのが、私が「道」や「窓」が好きな理由のような気がします。

でも、「扉」とか「大通り」みたいな場所ではなく「窓」や「道(路地)」が好きなのは、見せるための場所でない、生活感溢れる、その国の文化を感じられる場所が好きだからだろうと思います。

ちなみに、パイ・インターナショナルさんの本は、アート系の本も多く、表紙デザインも素敵で、しかもちょっとマニアックな、私好みの本がたくさんあります。今回、ホームページを見ていて、「読みたい!」と思う本をたくさん見つけてしまいました。そんなわけで、近いうちに、また買った本の紹介をするかもしれません…。

 

さて、曼荼羅アートです。

なんとなく、お花っぽい感じのものを描きたくなったので、描き始めたのですが、外側に行くにしたがって、違う要素を入れたくなったので(よくあるパターンです)、お花の額のような感じにしました。

このままだと、ちょっと寂しいので、中に模様を描き込んでいこうかなと思っています(鉛筆で少しだけ描き込んでいます)。

曼荼羅アート(制作中)

曼荼羅アート(制作中)

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【美術】ペンの試し描きでさえも、意思が介在する ーやっぱり、意図しない絵を描くことは難しいー

普段、私は、曼荼羅アートの色を塗るとき、ペンの色を見るために、試し描きをします。

その時描いている曼荼羅アートの下に、下敷きも兼ねて、前のスケッチブックから一枚破った紙を挟んでいて、それに毎回、ちょっと線を引いては、色の感じを見ています(色を覚えてないので、何度でも同じ色を試し描きしています…)。

先日、ふとこの紙を見たら、色も線も適当でバラバラなのに、全体として、不思議な模様になっていて、なんだか綺麗だなあ、と感じました。

ちなみに、表が埋まったので、裏も使っていて、両面ともそれなりに良い感じだなあ、と思っています。

私は、呉竹のリアルブラッシュという水彩のペンを使うことが多いので、ほとんどはその色ですが、ところどころ、コピックの色も混ざっています。

ペンの試し描き①

ペンの試し描き①

こちらは、紙の中心を出すために、割り算の式を紙の片隅に書いています。消そうかなとも思ったのですが、この式を避けながら線を描いていて、消したら不自然な空間が空くので、そのままにしました。

ペンの試し描き②

ペンの試し描き②

余談ですが、私はジョルジュ・スーラ(1859-1891)がわりと好きで、代表作の「グランド・ジャット島の日曜日の午後」に憧れて、高校生の頃に、それっぽい感じを目指して油絵を描いたこともあります。…結果は、思ったのとは全然違う感じに仕上がり、大雑把な私には、あの描き方は向かない、ということが分かりました。

参考までに、Wikipediaの解説を貼り付けておきます。

ja.wikipedia.org

スーラの絵は拡大すると無数のいろんな色の点で成り立っているのですが、離れて見ると、きちんと調和が取れていて、ひとつの絵画として破綻なく構成されています。

私のペンの試し描きも、色んな色が混ざっていますが、離れて見ると、それなりに調和が取れて見えたので、勝手に「スーラの点描っぽい要素がある!」と思い、こっそり(?)嬉しくなりました。

さて、話がだいぶそれましたが、以前、ブログで現代アートをテーマにして「自分の意図しない線を描くことは難しい」ということを書きました。

【現代アート】自分の意思を反映しない絵画 ー意図しない線を描くことは難しいー - 空の青 風の緑 ーゆるりクリエイティブー

このペンの試し描きは、何の意図もなく、適当に空いたところに線を描いただけで、なんとなく全体の調和の取れたものが出来上がったので、当初「これこそ、自分の意思が介在しない絵(?)かもしれない」と思って、そのつもりで、ブログを書こうとしました。

ですが、よくよく考えて見ると、そもそも120色くらいあるペンの色を1本選んでいる、という時点で、そこに私の意思があります。しかも、私は青系統の色が好きなので、よく見ると青っぽい色が多く、それも私の好みを反映しています。

さらに、「この色の隣にこの色を置いたら、どう見えるかな?」と、ある色とある色を隣合わせて試し描きをすることもありますし、描くところがなくなると、どこかの隙間を探して、試し描きをしたりします。

結論として、何も考えてないつもりのペンの試し描きでさえも、こんなに「自分の意思」が関わっているのか、ということに気づかされて、なんだか面白く感じました。

何かを形作ろうとしたわけではないので、全体の出来は、確かに何かを意図したわけではない、と言えますが、その全体を構成する要素には、確かに私の意思が各所に反映されているのです。

ペンの試し描きひとつで、ずいぶん大げさな話になりましたが、でも、何も考えていないようなものであっても、自分の意思が反映されていることに気づいたとき、現代アートで偶然の要素を多く取り入れた作品を作られる方の気持ちが、少しだけ分かったような気がしました。

どれだけ、自分の意思が介在しないものを作れるのか、そして、そこに面白さや美などの要素を見つけていけるのか、その面白さの欠片のようなものを、今回の考察(?)を通して、ちょっとだけ味わうことが出来た気がします。

普段、私は現代アートの展覧会には、ほとんど足を運ばないのですが、今までと、ちょっと違う観点で作品を鑑賞することができるような気がしていて、今度機会を見つけて、出かけてみよう、と思っています。

 

さて、曼荼羅アートです。

中央の部分をどう着色するかのイメージが上手くまとまらなくて、面積的には少ないのですが、けっこう完成に時間がかかりました。

外側の明るい色彩を活かしつつ、それと調和するような配色を目指したのですが、どっちつかずの中途半端な仕上がりになってしまった気がします。

ちなみに、一か所途中で塗り間違えてしまって、そのままだと交互に塗れなくなってしまうので、線を塗りつぶして模様を変えました(他と模様の規則性が違う場所がそうです…)。

色をたくさん使うと明るくて華やかになるのですが、その分全体のバランスをとるのが難しくなるなあ、といつも感じます。

ちょっと目がチカチカしますが、交互に塗るのが好きなので、(できあがりの満足度はともかく)総合的には、結構楽しく描くことができたので、良しとしたいと思います。

曼荼羅アート

曼荼羅アート

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【美術と音楽】表現を言語化するということ ー自分の表現を言葉で伝えることの意味ー

先日、クラシックのコンサートに行きました。

とても楽しいコンサートで、指揮者の方が曲について、音楽的な観点から分かりやすく曲の構造(?)を説明してくださって、音楽に全く知識のない私でも、面白く聞くことができました。

また、ご自分の作曲した曲についても、どの部分をどういう気持ちでどう表現したのか、ということまで語ってくださって、そういうお話を聞くことができる機会は、なかなか無いので、本当に興味深くて、心に残る素敵な経験ができました。

考えてみると、音楽であっても、美術であっても、この指揮者の方のように、自分の表現をきちんと言語化することは、作った本人であっても、結構難しいことじゃないかな、と思います。

それは、ある意味当然のことで、言葉で語ることができるのなら、多分最初から言葉で表現するわけで、言葉にできない、自分の表現したい何かを、人は、美術とか音楽の形でアウトプットしているのだと思います。

「こうだから、こうで、こう表現しよう」と、頭で理屈を考えて作ることもないわけではないと思いますが、感覚的に作ることも多いと思うので、それを言語化する、となると、自分でもどう伝えていいのか、分からない、ということになるのだと思います。

別に音楽でも美術でも、いちいち解説する必要はなくて、聞いた人、見た人が自由に感じ、想像して良いのだと思いますが、全くその世界に触れて来なかった人からすると、逆にただ見る、ただ聞く、ということの方が、どこに注目していいか分からず、ハードルが高いように感じられるのではないかな、という気がします。

私も、クラシックは全然知識もなく、ここ最近になって、コンサートに行ってみたりするようになった程度なので、漫然と聞いていると、うっかり寝落ち(!)してしまうこともあるので、「こういうところに注目して聞いてくださいね」とか「ここはこういう風景を表現してみようと思いました」という解説があると、それを道しるべにして、聞きやすくなるなあ、と思いました。

このように、聴く側にとっても、作品を言語で分かりやすく表現してもらうことは大きなメリットがあるわけですが、作り手側にとっても、自分の作品を言語化することは、意味があることではないかな、と、今回の経験を通して、ふと考えました。

よく勉強など「誰かに教えると、理解が深まる」と言いますが、作品の言語化も、同じことが言えると思います。

自分の感覚で作っていたものを、人に伝えるという目的を持って、言葉という別の形に変換しようとすると、自分が何を考え、どういう意図を持ってこの表現をしようとしたのか、ということに、自然と向き合わざるを得ません。

そうすることで、その意図に対して、この表現は適切であったのか、ということを考えたり、そもそも、自分がそういった意図を持っていたことに、初めて気づかされたり、と自分の作品に新たな発見があったりすると思うのです。

と、なんだかちょっと小難しく、カッコよく(?)語ってしまいましたが、私自身、自分の曼荼羅アートをブログに載せるとき、言語化するのに迷って、何と書こうか、けっこう悩むときがあります。

基本いつも感覚で描いているので、どうしてそうしたか、を自分自身に問いかけてみても、「この色の方が何だか良いと思ったから」みたいな、曖昧な答えしか浮かばなかったりするのです。

ただ、そこを、もう少し突き詰めて考えてみると、例えば、今回の曼荼羅アート(途中ですが)だと「アフリカっぽい感じを連想したので、原色の方がイメージに合うと思った。」と考えていたことに気づき、さらに、「お互いの色を引き立てたいと思ったので、近い系統の色を隣り合わせないようにしようと思った」という考えがあったことを、自分で初めて自覚したりするわけです。

自分の表現の意図を、自分で自覚すると、また新たな表現を模索しようと思ったり、今の表現を深めてみようと思ったりと、作品に対するアプローチも変わりそうだな、と自分のことを振り返って、今回思いました。なので、時には、自分の表現を(人に伝えるつもりで)言語化してみるのも、新たな自分の発見につながったりして、面白いのではないかな、考えています。

音楽にしても美術にしても、あんまり作品について(作者本人が)語った言葉を聞く機会が少ないので、機会があれば、色んな方が自分の作品について語る言葉を聞きたいな、と思っています。

 

さて、さきほど解説してしまいましたが、曼荼羅アートです。模様が細かいので、ちょっとずつしか進んでいません。

集中力のないタイプなので、一気にやろうとすると、すぐ塗り間違えたり、はみ出たりするので、細かい模様の時は、あんまり根を詰めないようにしています。

今のところは、良い感じだなあ、と思っていますが、未だにノープランなので、これからどこを、どう塗ろうかなあ、と考えています。

曼荼羅アート(制作中)

曼荼羅アート(制作中)

 

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【本・美術】順調に(?)栞を無くし続けています。

以前、栞を無くします、ということをブログに書きました↓

好きな栞は使えません。 - 空の青 風の緑 ーゆるりクリエイティブー

そして、今現在も、順調に(?)栞を無くし続けています。

普段、物をよく無くすというタイプではないのですが、栞だけは本当に自分でも不思議なくらい無くします。

なぜかというと、以前も書いたのですが、本を読み終わった後、栞を抜く、ということをしないからです。たまに、思い出して抜くこともあるのですが、本当に7、8冊に1枚抜くかどうかです。なので、本当に気に入った栞は、使わないで取っておいて、ときどき眺めている、というわけのわからないことをしています。

こんな具合なので、私は普段使う栞にはあまりこだわっているつもりはなく、栞として使えればいいや、くらいの気持ちでいました。

ここ、数年、メインで使っていた栞は、とあるキャンペーンで、たまたま大量に(30枚くらい?)もらったものでした。案の定、徐々に無くしてしまい、気づいたら残りが5枚くらいになってしまいました。

自分の本棚の本をパラパラ探して、2、3枚は救出したのですが、あとは見つからなかったので、本を整理したときに、一緒に手放してしまったのかな、と思いました。

まだ5枚くらいはあるのですが、なんとなく栞の予備がほしい気持ちになってしまい、ここ数ヶ月、本屋さんで本を買うとき、レジに置いてある適当な栞を「1枚いただいて良いですか?」とお尋ねして、もらうようになりました。

そうしたところ、先日、買った本に、自分がもらったものでない栞が挟んであることに気づきました。おそらく、新品の本だったので、お店の方で入れてくださったものだと思います。

ちなみに、私は、栞を机の上のペン立てのようなところに、がサッと入れていて、必要なときは、そこから取って本に挟むようにしています。

そのときは、「1枚栞が増えた!」と思って、ちょっと嬉しくなって、栞入れに入れました。

ところが、栞を使おうと思って、栞入れから栞を取り出すたび、なんとなく、その栞(本に最初から入っていた栞)は手に取る気にならず、無意識に他の栞を先に使っていました。とうとう、栞入れに、それ1枚になって、やっと手に取ったのですが、なんとなく気にいらなくて、結局、他の本から栞を探してきて、使いました。

なぜ、この栞が気に入らないのだろう?と自分でも気になって、その栞を手に取って、良く見てみました。

すぐに気づいた理由は、他の栞より紙の厚みが少し薄くて、本の間に挟んだとき、栞がどこにあるか分かりにくいから、ということでした。(かといって厚すぎると、本から落ちてしまったり、本にページの開き癖がつくので、紙が厚すぎるのも使いにくいのですが…)

ですが、それは、手にとって厚みをしっかり確認して分かったことで、そもそも、今まで、その栞を使おうとしなかった最大の理由は「この栞の柄が好みじゃないなあ」という、しごくシンプルな理由でした。

そして、今まで本屋さんで、適当にレジ横にある栞をもらっていたつもりで、実は明確に、「栞の柄が好みである」ものを選んでいたことにも、気づきました。

私がもらってきていたものは、本屋さんのレジ横に無料で置いてあるもので、たいてい何かの広告の栞でした。でも、よく考えると、その中でも裏側がシンプルなチェック模様だとか、可愛いイラストかあるとか、デザインが良いとか、そういうものばかりを選んでいました。

というより、先に栞の柄に目を惹かれて、「この柄がいいな」と無意識に思って、栞を手に取っていたように思います。

正直、紙の厚みにしても、柄にしても、うっかり何枚も無くしてしまうくらいのものなのに、こだわりを持っている、ということに、全然自分では気づいていませんでした。

でも、やはり、考えてみると、一時的にしか使わなくても、気に入った柄のものを使いたい、というか、自分にとって心地よく感じられる模様とかデザインを見ていたい、という気持ちが、私は強いのだなあ、と思います。

ある程度自覚はありましたが、でもその自覚以上に、自分で思っているより、私は視覚的なものを重視しているのだなあ、と、改めて感じました。

視覚的なものに限らず、「こだわりがない」と思っていても、やはりどこかで、人は、何らかの自分の基準に基づいて、何かを選んでいるのだなあ、と今回しみじみ思いました。ひとそれぞれ、それを発揮(?)するポイント(聴覚だったり、嗅覚だったり、触感だったり)や強さは違うと思うのですが、でも、それがその人の「個性」というものなのだろうと思います。

無意識でも、何かを選ぶとき、なぜそれを選んだのか、を考えてみると、他にも自分の「こだわりポイント」が見つかるかもしれないなあ、とも思っています。そして、その「こだわりポイント」を、自分で知っていると、何かを選ぶとき、自分に取って心地良い物を選べるようになって、ちょっとだけ、生活が心地良くなるのかも、と今回考えたりしました。

 

さて、曼荼羅アートです。

中途半端ですが、このまま載せることにしました。なんとなく、アフリカンなイメージが浮かんだので、とりあえず緑で葉っぱぽいところ(自分で描いておいていうのもなんですが、何と決めて描いているわけはないので…)を塗ってみました。

赤い部分はなんとなくアフリカとかのお面みたいなものを連想したのですが、交互に塗ってしまったので、お面ぽさがなくなった気がします。

当初、交互に塗るつもりはなかったのですが、どうしようかな、と思いつつ、気づいたら交互に彩色していました。

このあとも、まだ完全に未定なので、イメージが浮かんで、埋められるところから色を塗っていこうかな、と思っています。原色に近い、明るい色を使って行こうかな、とは考えています。

曼荼羅アート(制作中)

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AIとクリエティブ ー創作活動の過程と結果は別物ー

私は、あまりアートなどに関して、最近話題になっていることを取り上げることはしないのですが、今回は珍しく、AIについて書いてみようと思います。

ちなみに、最近の話題について書かない理由は、一つは技術などに関しては、自分自身が十分に使っていなくて、何かを書けるほどの知識や経験が伴っていないことが多いからです。

もう一つ理由があって、技術に関しても、それ以外の話題に関しても、評価が定まっていないというか、情報が十分に出そろっていない時点で、何かを語るのが、私自身が得意ではないからです(これは、他の人がどうこう、ということではなくて、単に、私が色々調べて、色んな意見を読んだりして、その中で自分の考えをまとめたいタイプだというだけです。情報がそろってなくても、発展途中のものであっても、その時点での自分の考えを発信するのも、すごく意義のあることだと思います)。

数年前から、AIの話はメリット、デメリットを含めて話題になっていましたが、最近、私自身も遅ればせながら、仕事でAIを使う機会が増えてきました。また、日常でもAIで作られたものを見る機会も、どんどん増えてきたなあ、と思います。

といっても、AIをバリバリ使いこなす、というほど使ってもいませんし、知識もありません。なので、AIに対する感想とか評価ではなく、AIを使ってみたことで、自分の創作活動について、改めて考えるきっかけが得られたので、それについて、少し書いてみたいなあと思います。

さて、AIの活躍する分野は様々ありますが、最近初めて、AIでデザイン作業(?)をやってみました(EXCELとかの関数についてAIに質問したり、ということは、今までもやっていました)。

現在の仕事は事務関係なので、あまりクリエイティブな作業はないのですが、先日、ロゴのようなものを作る機会がありました。実のところ、私はデザインはあまり得意ではなく、洗練されたデザインじゃないなあ、と自分の作ったものを見て思ったりします(余白をぎちぎちに埋めるタイプだからです…)。ロゴのようなものは、特に苦手意識があって、考えるのは嫌いではないのですが、出来た作品には自信がありません。

そんなわけで、時間がかかっても、納得いくものが思い浮かばずに「イメージがまとまらないなあ…」と考えていて、「ふと、AIにロゴを考えてもらったら、どういうものを作るのだろう?」という興味が湧きました。

そこで、いくつかキーワードや条件を示して、デザイン案をAIに作ってもらうと、ものの何十秒かで、私には思いもつかないような、カッコいいデザイン、洗練されたデザインなどをパッと何個も作ってくれました。

「おぉ~。」と感心はしたのですが、実のところ「つまらないなあ…」と思ってしまいました。出来上がったものがどんなに素晴らしくても、そこに自分の創造性は全く感じられなくて、人が描いたものを見ているような気分でした。

もちろん、やり方は色々あって、出てきたものに細かい修正指示を加えて自分のイメージに近づけたり、自分のデザインしたものをベースにAIにブラッシュアップしてもらったりと、自分の個性とAIを融合させて、上手く作っていくこともできると思います。

ですが、そういうことではなくて、AIを使って出来たデザイン案を見てつまらないと感じた時、「そもそも自分は、創作活動に何を求めているのだろうか」という疑問が湧いて来たのです。

そうやって考えてみると、あくまで私の場合なのですが、「結果」が欲しくて創作活動をしているわけではない、ということに気づいたのです。もちろん、出来上がったものが自分の満足行く出来で、見た人も「いいね」と認めてくれるものなら、嬉しいですが、それが欲しくて、創作をしているわけではない、ということなのです。

私は今は曼荼羅アートをよく描いていますが、「次はこういう感じで描いてみたらどうだろう?」と思ったり「思ってたのと違うけど良い感じ」とか「失敗したけど、それが逆に面白い効果を生んだなあ」とか、制作の途中過程で、ワクワクしたりがっかりしたり、色々な感情を抱きます。下描きは良かったけれども、着色で失敗して、完成作はいまいち、ということも珍しくありません。

でも、結果が良くなくても、また次も描きたいなあ、と自然と思います。それは、もちろん、自分のイメージを形にしたい、というような創造意欲もありますが、失敗も含めた途中過程も楽しんでいるからなのです。

そして、何かを創作する、ということは、私にとって、少なからず自分を表現することです。自分が見てきたもの、考えたこと、それを(意識するとしないに関わらず)取捨選択しながら、表現をしているわけです。AIは、私の知らない膨大な知識を加えて制作をしてくれますが、そこに意外性はあっても、私を表現したことにはならないので、「つまらない」と感じてしまうのだろうと思います。

と、いっても、これは、あくまでプライベートで私が創作活動をするときの話です。もし、私がデザイン会社とかでチラシのデザインを毎日バンバン作るような仕事をしていたなら、積極的に生成AIを使って、イラストやデザインを作っていたと思います(その方が圧倒的に時間が短縮されますし、間違いなく、私より素敵なものを作ってくれます…)。

言いたいことが、上手くまとまっているか、ちょっと自信がないのですが、結局は、今回はAIの話というより、AIを通して考えた私の創作活動の話になりました。人それぞれ創作活動に求めるものは様々で、AIを使うことで、より創作活動が楽しくなる方もいらっしゃると思います。

まだ、AIについては、色々と発展途上な部分もあると思うのですが、AIに限らず、新しい何かを使い、取り入れるとき、自分自身が何を求めて、何を大切にしているかを、今一度確認しながら、使っていきたいなあ、と思いました。

 

さて、曼荼羅アートです。

前回の作品を描いたとき、ちょっとタロットっぽいような、トランプの絵札のようなイメージを思いついたので、今度は、その雰囲気で描いてみようと思いました。

…が、手元に資料などなく、画像検索をすることもしなかったので、トランプのイメージもタロットのイメージも形にならないまま、適当に(!)描いてしまったので、どちらの雰囲気も、全くないものが出来上がりました。

でも、なんとなく、まとまりはある感じになったので、これはこれでいいかなあ、と思っています。色をどういう風に塗るかのイメージが、現時点では全然浮かんでいないので、どういう仕上がりになるかは、自分でも未知数です。

曼荼羅アート(制作中)

曼荼羅アート(制作中)

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【文章を書く】文章を書くスピードと、字の丁寧さは、反比例する

最近は、スマホやパソコンで文章を打つことが多く、手書きで文字を書く機会が減った、という方も多くいらっしゃると思います。

私も、普段、手書きで文字を書く機会は少ないのですが、時々、手紙を書くことがあります。

メールやラインでもやりとりはできるのですが、レターパックなどで、ちょっとしたものを送るとき、何か一言添えようかな、と思って手紙を書いたりします。 

だいたい、便箋1、2枚くらいで挨拶と近況を知らせるつもりで書き始めるのですが、気づくとだいたい、便箋4枚くらいは軽く書いています。

そして、毎回そうなのですが、最初のうちは、字を大きく丁寧に書いているのですが、便箋2枚目後半くらいから、だんだん字が雑になっていくのです。

書いているときは、あんまり意識していないのですが、書き終わって読み返すと、自分の字の雑さに、がっくりします。

ここで言う、字が綺麗というのと、丁寧というのは別で、綺麗な字は練習で(元々綺麗な方もいらっしゃいますが)身につきますが、丁寧であるかは、字を書いているときの心がけ次第だと思うのです。

その人なりの、一番綺麗な字を書こう、と心がけていれば、丁寧な字は書けるはずなのです。

ですが、私の場合、手紙を書いているうちに、書きたい文章が次々に浮かんでくるので、その文章を早く書きたい気持ちの方が勝ってしまい、結果、字を丁寧に書く、ということがおろそかになってしまいます。

以前働いていた資料館で、多くの文筆家の方の手紙を読む機会があったのですが、やはり(私と同列に語るのはおこがましいのですが)文筆家の方も、後半になるほど、字が走っている方が多かったです。

昔の方は、遠方の方との(近場でも)主な通信手段が手紙なので、文筆業でなくても、筆まめな方が多いのですが、中でも文筆業の方は、仕事柄もあってか、手紙のやりとりが多く、そして1回のお手紙の枚数も多い傾向にあると思います。

だいたい皆同じで、最初のうちは、やはり丁寧に字も大きく書かれているのですが、興が乗ってくる2枚目あたりから、字が流れ始めます。自分もそうなので、なんとなく分かるのですが、頭の中で出来上がる文章のスピードに、字を書くスピードが追い付かない感じが、手紙を読んでいると伝わってくるのです。

特に、小説家より本業が随筆家の方は、その傾向が顕著で、本人の語りたい熱量が、字の勢いにそのまま出ている、という感じがします。時に、字が走りすぎて、読めないこともあるのですが、でも、パッションだけは確かに感じる!、と思いながら読んでいました(ただ、同じ人の手紙を何通か読んでいるうちに、不思議と、どんなに流れている字でも読めるようになるのですが)。

そして、ただの近況を書いた手紙などであっても、文筆業の方の文章は、やはり、面白く、読み手を引き込み、読ませる力があります。推敲を重ねた文章ではなく、頭の中の表現を次々に思いつくまま、一気に書いたような手紙であっても、やはり元々の発想力や文章力などの力量があるんだなあ、としみじみ思います。そんなわけで、ちょっと資料整理、というつもりで、手紙を手に取って、うっかり読みふけってしまうことも、あったりしました。

字は、丁寧に書くにこしたことはないと思うのですが、でも、その字の勢いには、その時書きたかった思いのようなものも乗っていて、それが伝わる手書きの文字は、やっぱり良い物だなあ、と文筆家さんの手紙を読んで思っていました。もちろん、資料としても、書かれている内容ばかりでなく、字を見ることで、どういう話題で、字に勢いがついているのか、というのが分かったりするので、手書きの手紙は貴重なものでもあります。

ただ、そうは言っても、私自身、自分で書く手紙は、やはり丁寧に書きたい気持ちがああります。手紙は、人に読ませることが前提なので、読みにくい文字より、読みやすい文字を書きたい、と思います。

なので、後から読み返して、字が走って雑になっていると、なんだか残念な気持ちになってしまい、次、お手紙を書くときは、最初から最後まで、気合を入れて丁寧に書くぞ!と毎回決意します。が、そういうお手紙が、書けた試しは、今のところ(仕事で書いていたものを除けば)ありません…。

 

さて、曼荼羅アートです。

ちょっと全体が暗いのですが、明るくすると、色が飛んで全部同じような色に見えてしまうので、あえて暗いままにしています。

ペンで模様を描こうと思ったときは、黒で塗りつぶすような感じで、模様を構成するつもりでした。ですが、描き始めてみたら、なんだかしっくり来なくて、結局、ほとんど塗りつぶさずに、線を残す形にしました。中央から描き始めて、だんだん気が変わったので、外側に行くにつれて、塗りつぶし面積が少なくなっています(無計画…)。

これは、これで面白いかな、と思うのですが、やはり下描きなしで描くのは、一つ一つの模様のばらつきが大きいので(私の技術の問題ですが…)、なかなか難しいです。

でも、出来上がりが面白いので、また気が向いたら、このタイプの曼荼羅アートにも挑戦したいと思います。

個人的に、一番外側の明るい水色の模様が、なんとなくタロットカードみたいな感じで(詳しくないのでイメージです)、ストーリー性が感じられるので、こういう雰囲気も、今後も活かしていけたらいいなあ、と思っています。

曼荼羅アート

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