現代アートの作品には、いかに自分の意図しないもの、自分の意思が入り込まないものを作るか、ということを突き詰めて表現しようとしたものがあります。
そういうものは、ただ線を引いただけだったり、絵の具をキャンバスに叩きつけただけのように見えたり、時には、言語化することが難しいような、どうやって、何を使って表現したのだろう?というものもあったりします。
そういう作品は一見すると、描くのが簡単そうなので、こういうものなら、自分でも描けそう、というふうに思われる方もいらっしゃるかもしれません。
実際、現代アートは、本当にさまざまな表現方法があるので(多分私が知っているのは、ほんの一部です)、一概には言えませんが、技法としては、必ずしも絵画的な技術が必要ないものもあります。なので、道具があれば、それらしいものを作ることは可能だろうと思います。
ただ、なぜ、そういうものを作りたいのだろう?と、多くの方は、不思議に感じられるかと思います。もちろん、そういうものを作ろうという考えに至るきっかけは、作家さんそれぞれ違うと思うのですが、私が思う一つの理由は、自分の意思が介在しない絵を描いてみたい、という気持ちからではないかな、と考えています。
いや、絵を描くのに意思は必要でしょう、と思われるでしょうが、でも、時に意図せず偶然に出来たものに、美しさとか面白さを感じたことは、誰でもあるのではないかと思います。
例えば、服に飛んだコーヒーのシミが、面白い形になったとか、割れたお皿の欠片が、とても独創な形になったとか、うっかり居眠りしたときに、手がすべって書いた線が、とても躍動感のある勢いあふれた魅力的な線になったとか…。あるいは、自然の中にある偶然の形、空の雲とか、木や石に、美を見出す、ということもあるはずです。
自分の意思を超えて、そういうものを表現したいと思うとき、自分の意思を反映しないものを、自分の手で生み出してみたいという欲求が生まれるのではないかな、と考えています。なんだか、とても分かりにくい表現で、相反する考えのようですが、それは、例えば、偶然にできた美しい自然の風景や色彩を見たとき、こういうものを表現したい、と思う気持ちと近いのかもしれません。
ところが、自分の意思を反映しない絵、というのは、考えてみるととても難しいのです。
例えば、鉛筆と白いA4サイズの紙を渡されて、「ここに、何かの形を表現しようとせずに、ただ、自由にぐちゃぐちゃに線を描いてください」と言われたとします。それなら、簡単にできる、と思って描き出します。が、少し描いていると、右端の方に線が少なくて空間ができているな、と思い、そこにも線が必要かな、と考え始めます。あるいは、中央に空間があるけれども、そこはそのままの方が良いかな、と考えたり、だいぶん線を描いた気がするけど、どこで描きやめようかな、と思ったり…。そこまで思考が形になっていなくても、無意識のうちに私たちは色んなことを考え、その意思を反映して手を動かしています。
おそらく、趣味でも仕事でも絵を描くことを良くやっている人ほど、線を描くだけのことでも、意思のない線を描くことは難しくなると思います。
これを、例えば、利き手でない方の手で描いてみるとか、目を閉じて描いてみるとかすると、自分の思っているところと違うところに線が生まれたりして、自分でも思わぬ形や表現が生まれたりします。思い通りにならない代わりに、自分の意思だけでは表現できない意外なものが生み出されます。
ちょっと抽象的で分かりにくいお話なのですが、そういうことを突き詰めていくと、もっと自分の意思の外で、意思を反映しない作品を作って、未知の形の中に生まれる、驚き、面白さ、美しさ、を表現してみたい、と思うのではないかなと、私は思っています。
さて、ちょっと間が空きましたが、曼荼羅アートです。
前枠だけ描いたときは、全然模様が浮かばなくて、ちょっと寝かせておいたのですが、イラストを描いているときに、カイ・ニールセンのような感じの装飾的な模様を入れてみたら面白いかな、と思いつきました。
本当は、輪郭線なしで色だけで模様を描きたかったのですが、それはさすがに描ける自信がなかったので、下描きをしてペンで線を入れました。結果、なぜかぱっと見、木目のような印象になってしまいました。
今、この文章を書いていて、思ったのですが、薄い灰色のペンなどで輪郭線を描けば良かったです。

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